社会の中にある「怒り」・・・身体感覚で変化した 隠れたパワー

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人間の感情ひとつ「怒り」
みなさんは、自分の「怒り」とどのようにお付き合いをしていますか?

Wikipediaから拝借
〜怒りの原因〜
怒りは、人間の原初的な感情の一つで、様々な要因・理由で起きるものである。様々な説明の方法があるが、冒頭の説明を別の角度から説明すると例えば、怒りというのは「危険にさらされた」という意識・認識に起因している、と説明できることは多い。「危険にさらされた」というのは、身体的なこと、有形なことがらに限らず、自尊心や名誉などの無形のことがらまで含まれる。

怒りのありがちな原因というのは、人生のステージごと、年齢層ごとに異なった傾向がある。幼児のうちは、怒りのありがちな原因というのは身体的な拘束である[1]。それが子供になってくると、厳格な規則であったり、自分に注目してくれないこと、などということが理由となる[1]。青年期や大人になると、怒りの要因は身体的なことではなく、もっと社会的なものになってくる傾向がある[1]。大人では例えば、(権利の)剥奪、(他人からの)不承認、いつわり・欺瞞などといったものが怒りの要因となる。

と、ある。


私の中で、「怒り」という感情に対し 居心地の悪さを感じる。自分が怒りを持つことになぜ違和感を感じるのか。
そこにはある構造があることを理解した。崩れるような感覚があった。
そのことについて 共有したい。

NVCトレーナーのロキシーとサラが行っている
「白人至上主義の痛みへのセルフコンパッション」に参加している。時代や社会の流れの中で生きる私たちを理解すること、そして日本のコミュニティで感じる何かが自分の中のでひっかかっていた。直感で受け始めた。夜中2:30〜のクラス。
そして、3回目の今日、その引っ掛かりの一部がつながった。

白人至上主義の構造は日本でも同じように起きている!
そこには パワー構造、ランク、察する文化、言わないのが悪い思い込み。私たちは人種差別と何一つ変わらない差別を違和感なく感じていて、人との関係性や成長過程で脳神経に影響を受けている。

生きていくために必死に自分を総動員させているのだ。
サバイバル的な生き方は、子どもたちを見ていると もう、すでに限界まできているのではないかとも思えている。

虐待、犯罪、性的トラウマ、ハラスメント、救済システムがないことなど 出来事のインパクトは海外に比べ、小さいかもしれないが、全く同じ構造だと気がついた。
日本人がが大事に扱っている「察する」文化や「恥」の意識。その奥に隠されてしまっている構造があることに気がついて欲しい。「恥」は表に出してはいけないもの、隠そうとしてきた文化がここにあった。
日本の社会を見渡した時、無意識に当たり前と思っている構造があり、それが当たり前ではなく 刷り込みだとしたらどうだろう・・・。違和感すら持つことはない。

言葉を発すること、言語を封じ込められた私たちは、どうやって違和感や気持ちを表現したらいいのかわからない。その時間的なゆとりもない。さらに「恥」や「軽蔑」「罪悪感が」そこに加わる。
ゆえに、「言語化できない」ので、必要な真野が得られずパワーと繋がれない。自ら自分と切断し閉じ込める。違和感が社会に埋もれてしまう。

感情をどのように扱ったらいいのかが解らないもどかしさや言葉にできないことへの自分への苛立ち。
その多くを私たちは育った環境や家族のなかで経験している。
本当の気持ちを言わずに推測し合うこと「察する」文化は 日本人にとって美徳かもしれない。
がしかし、そのことを重んじる前に 言葉で伝える、確認する、ことを学び分かち合うことでの平和があることも同じように大事にしていきたい。
察する文化が染み付いた日本で、現実を「現実です」ということにより、相手から刺激として怒りを浴びることがある。受け身になるには相当の耐性が必要だ。誰もが今までの生き方や自分の存在を否定されたかのように錯覚する。

パワーがない子どもの場合、パワーのあるものに「怒り」を持つことは許されないこと。という信念がある。そして契約を自分自身に結ぶ・・・。

あなたの家で、怒ることを許されていた誰か。その誰かが怒っているとき、私たちは何を内面化しましたか?
私は、怒られないように、言われないように完璧に過ごしてきた。
私は年が離れた4番目の末っ子だったので、兄弟との力の差が大きかった。
怒られる私は、役立たずで、ダメな子で、そんな自分がいけないんだと思い込んでいました。自分は拾われてきた子供だったのかもしれないとずっと思っていました。
頑張っていないと自分は受け入れてもらえない、存在しないと思っていました。そして私は自分が どれだけ悲しいか ということばかり考えていました。大人になった今でも。
知らぬうちに刷り込んでいた考え、最善を尽くすことは怒っていないことを意味しています。一番いいのは、怒らないことです。


とにかく 怒りを表現する兄弟は私にとってはパワーがあり、怖かった。
私は兄弟と自由に言いたいことを話すのが苦手でした。
今でも、うまく話すことができません。何かに縛られているような感覚があります。話しながら言葉を選ぶようになり、それを言語化することができないのです。

お母さんに安心されたり、家族に歓迎されたりするために、グレーにならないように努めたけれど、それでも褒められませんでした。これがどれほど大変で、わたしにとって歓迎されない怒りがどれほどあったか・・・に気がついた。ずっと信じ込んでいた感情の悲しみではく、怒りだったのです。

これは悲しみではなく、怒りだということを理解した瞬間。

これがわたしの声、
これがわたしのの声、わたしの考え、自分の存在をどれだけ沈黙させたかについて理解し、知った瞬間。
何かが、崩れた感覚がした。動きが止まった。時間が止まった。



「怒り」という言葉を聞くと、
悲しいというよりも身体に力が湧いてきます。
怒りはわたしの力を保持するのだと実感。


今まで悲しみだと思っていたものが、怒りだと理解することで、「そんなんじゃない!」と言語化できた。
そうする事で私の、神経回路が新しく繋がり始める。
それができた事で 自分の中で感じるパワーも違いました。
システムレベルでの違い、権力構造は家族の中にあったということ。
今でも、そのパワー構造を日本のコミュニティで感じる事がある。特に、声を出せない時に。

「私を尊敬しないなら、あなたを尊敬しません」と言う人は、「私を権威ある人物のように扱わないなら、私はあなたを人間としての基本的な良識を持って扱いません」という意味であることがある、というような素晴らしい言葉があります。

正しさや現実とどのように向き合い幸せな社会を手に入れるかを考えたとき、やはり道徳的な規範を選択してきた私たちの愛や根源につながり、自己愛を向けることが社会を変える第一歩になると私は確信している。
非暴力を誇示することは暴力になり、愛も怒りも同じエネルギーであることを理解し、今日も夢に向かって自分を生きる。

最近はジェンダーの問題も含め、グローバルマジョリティやマイクロアグレッションなどにも意識間向くようになった。
少数派の意見、個人に意識を向け その声が尊重され始めた。
今、広がっている社会の中で 生き残りをかけ サバイバルを行いながら生きることを手放し始めている人が増えてきた。
そのことをもう少し、広い視点で追いかけていきたい。

「怒り」を、個人的な防衛に使うのではなく、
自分たちの愛や誇り、愛につながったところからパワーに変えていくこと。美しい「怒り」の表現があることを知った。
相手に向いた「怒り」は、自分の中のどんなことへの願いの表れなのか・・・怒りの表現は、願いの表現であって欲しい。
そうありたい。

世界を愛で生きること。
そこには計り知れない、物語が混在する。

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