小学校1年生の三男との出来事。
それらを プロセスしてみました。
自分が小学校だった時のことを思い出し、今の社会で子供達が生きていく時に、どこまでそれらをキャッチできるかは、大きな課題です。
NVCに出会わなかったら、このことに気づけなかった。
三男が素直に純粋であることが、私にとって大きなギフトであることに気がつけました。
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<ある日の出来事>
三男が学校に行きたくないといった。理由は学校の授業で使う「虫カゴ」がなくて恥ずかしい。
もじもじしながら、学校に行く気配もなく 体全部が重たく気が向かない様子で私の様子を見にきたり、ゴロンと寝転んだり落ち着かない様子に見えた。
朝早くから開店しているお店を探すも、空いているところはなく、そのまま走らせた車を学校に向けて、送り出す。
車の中では、どうしたらこうならないかなど、虫かごが必要であることを伝えるにはいつのタイミングがいいのかなど確認しあった。
確かに、三男は「虫かご」が必要だと言っていた。そして手作りで作って持たせようと準備をしたが、クラスのみんなが持ってきていた虫かごを見て、手作りで準備したものがひんそに見えたのだと理解した。
学校に着くと、学校の入り口で足が止まり、
「やっぱり。行きたくない」「虫かごがないと恥ずかしい」と車に引き返していった。それ以外は無言だった。そして「ママ、ごめんね」と言っていた。
そのまま家に戻り、家で過ごし、お店が開店する10:00になるのを持って虫カゴを購入して学校まで送り出した。
<観察>
三男が学校の入り口で「学校に行きたくない」と、車まで一目散に戻るのを見た時。
<感情、身体感覚、考え>
頭に圧縮されるような、血が登るような感覚を感じる。それは怒り。
それと同時に学校に楽しく行くように虫カゴを準備できなかったことへの悲しさ、楽しい授業が体験できない残念さをハートのあたりで感じた。胸の奥がヒヤッとして、一瞬で力が抜ける感覚になるのを感じる。
力が奪われていく感覚、自分ではどうすることもできないもどかしさ。
そして、「そのくらいたいしたことじゃない」「虫かごがなくても授業は受けられる」「恥ずかしいだなんておかしい」という考えがいくつも浮かんできた。
これらの言葉を確認することで、力を取り戻そうとしていた。
母として、あるべき姿に翻弄されている。
「三男を理解したい」「恥ずかしいんだよね」と思う気持ちがかき消され、私がこうして車で送ってきていることに対し、「甘えている」「配慮すべきだ」という考えがでいっぱいになった。「私は仕事をしている。そのことを理解すべきだ。」と言っていた。
それらを口に出して見ると、次から次へと怒りの言葉が止まらなくなってしまった。
<その時の私の人間欲求>
三男を理解したいし、私の状況を理解されたかった。そして前日に準備ができるように何ができたかを 必死に子供に考えさせる声がけをしていた。
彼のといいつつ、それらをする自分の、感情的な安心感や、必要としていたのは、サポート、前進や効率、貢献だった。
自分自身の仕事に対するゆとりやスペースも必要だったかな。
(自分のことばかりしか考えていない・・・^^;)
<その状態の、三男になってみる>
自分の心をチェックし、広げ、できる限り開いて、確認した人間のニーズ を取り入れ、相手を異なる存在ではなく、自分に似た存在として見るようにします。
三男は、サポートを強く望んでいたのに気がついた。
「ママ!助けて!!」と叫んでいた。
学校で楽しく過ごすことは大好きだけれど、何かで恥ずかしい思いをすることに向き合うのがとても怖いこと。そして、それらに対しどうしていいか分からないくらいに苦しいことを理解できた。
体は震えそうな感覚、そしてママに対して仕事の邪魔をしてしまっている自分を否定していた。
ママに迷惑をかける自分はよくない存在だ。自分はダメだと言っていた。体は緊張で縮こまり、動けない状態で、それらを言葉にする言語能力もなく、察して助けて欲しい。
それをじっと待つ感覚。
学校に行くと集団であるみんなの目への怖さ、恐怖が体を襲ってきて 自分をそこに向かわせることができなくなっていた。
それらを体験して、
私は、何も理解できていない状態で、包み込むことができなかったことにを理解した。それらの自分がとても残念だった。
私は、三男を羨ましいと思っていたことにも気がついた。
自分が子供時代に三男と同じ状況になったとしたら、学校で体験する視線、見られることや評価への怖さを我慢して、恥を覚悟して学校に行かなければいかなかった。
自分に湧き起こる感覚や感情に素直に行動することも、それらを表現することも、それらに気づくこともできなかったと振り返った。
自分に正直になることで、親から叱られることへの恐怖が出てきてしまうので、どちらの選択をしても恐怖と向き合わなければならない。
どっちにしても自分にとっては生きにくい世界で、自分の素直な感情に蓋をしなければならず、それらを継続的に経験する中で 本当は当たり前の感覚ではないことを当たり前だと定義づけしてしまっていたことに気がついた。
そして、NVCに出会うまでは自分の中に湧き起こる感覚を否定し続けてきた。
三男よ。
素直で、純粋であってくれてありがとう。
そして、このことを私にギフトとして 知らせてくれたことに深く感謝します。
私に、うまく表現できないにしろ、今現在、自分の中にある感覚やそれに素直でありたいことを正直に彼なりの方法で行ってくれていること、それはそれは怖かったね。
私に安心してそうしていただけていることに深く、深く、感謝を覚え、大事にしたいと思った。