
NVCについて無防備に話をしていたあとに少し考えてみた。
非暴力であることに意識が向いてしまい。それは暴力的になっていることを話すことができた。
相手に対するジャッカル(批判や批難、怒り)を出すことは、ありのままの自分を歓迎すること。
相手が目の前にいる場合にジャッカルが出せなくなってしまい、ランクアンダーになる自分を感じたり、ジャッカルをしていること自体が「いいことではない」の判断がそこにあるため。反応状態である指摘を回避するために無意識に「いい子」を演じたり、言葉が出せない状態になること。
自分自身を評価している(NVCができているできてないの判断)があることに気づく。
ジャカルや感情を出すことを十分に安心してできるには、どんなことがあっても私たちの関係性は回復できる「信頼」があることが大事と頷く。
相手がどのような状態であっても それらをそのままそこにあるものとして置いておくことへの憧れを確認した。
これがなかなか難しい。
真性さ、安心、共に生きる、命の輝きのニーズが生き生きした
生き物であることを誤魔化さず、どんな自分もあるものとして観察できるとしたら、そこにはどのくらい深い自分とのつながりが生まれるのだろうか。
全てを委ねる関係性を持とうとした時に、どうしても自分を守ることが先に立ってしまい、純粋に相手の話が聞こえてこない場合もある。
本能的に持ち備えている、防衛や闘争。
生き残りや子孫繁栄の細胞レベルで持ち備えた豊かさとエネルギーを、どの方向に向かわせ進めていくかは大きな鍵となりそうだ。
交わしている言葉の殆どは氷山の一角にしかすぎず、相手のことを深く知るには情報が少なすぎる。
NVCと共に生きること、その経験の中で培われるものは、大きな資源であり、それらを十分に生かすこと。
見えていないものや予測可能性のアンテナを張り巡らせ、共感する。
相手に対して、思いやりを向けたり予測や推測をすることで含み含まれることが可能になる。
もう、言葉なんていらないのにな・・・
そう思うこともいっぱいあった。
でもね、私はNVCに可能性があると思っている。
〜〜
NVCトレーナーMikiが言った。
自分の真実や精神性に深く入り込めば込むほど、その中にケアがある。
私たちは普段、本物ではない訓練を受けている。
文化に関係なく、「良いことが言えないのならば何も言うな」
このメッセージの恐ろしさ。
正直さと真生さ、自分らしさ。
善意のない正直さはただの意地悪になる。
防衛に気づき、その奥にあるものを響かせたい。
このことを考えていた。
兄の言葉
「本気で喧嘩できる、言いたい事が言えることが大事」
恥もなんでもそのままがいい。
その後にコミュニケーションすること。
自分が防衛的になってしまった場合、コミュニケーションができると自分が思うまで、私は数多くのプロセスと多くの時間を要します。
それがその人にとっては、思い描いたタイミングではないことも知っています。
でも、自分を一番大事にしなかったらその人も大事にできないと思っているので、そこは自分の直感を信じるしかないのです。
自分を確認して、つながろうとした時に相手のタイミングと合わず。つながれない状態になってしまっている場面も多くありました。それを受け止め、もどかしさを感じる。
相手の幸せを祈るしかない。
理想と現実のギャップがあるなと思いつつも・・・願うしかないのです。
みんなが幸せで、健やかでありますように