
日々の中から。
覚書
今朝の出来事、
長男が手伝ってくれていつものように子ども達が朝食を食べ始める。(我が家では朝食の準備は長男がお手伝いしてくれます^^;)
昨日の夕食の坦々鍋の残りを食べ始め、辛くて食べられないかもと、少し残っていたお味噌汁を飲もうと台所に立った時、昨夜まであったお味噌汁がなくなっていた。
あれ?
一瞬時間が止まって、頭が真っ白になった。
予測不可能なことが起きると、私はフリーズする特性があります。
少し混乱しながらも、記憶を確認。
一瞬寝ぼけているのかと思った。
いや、ここにあったはず。あったはずのお味噌汁が消えていた。
・
瞬時に「お味噌汁、あったはずなんだけど 誰か知らない??」
子ども達に話しかけても、
「知らない」
「知らないってば!」と答えが返ってきて、
長男の不機嫌そうな反応。
・
すでに私の思考は、「誰かが捨てたに違いない。」と決めつけていて、
食べられるもの、あったものを捨てた。
その事実を隠す(隠蔽)することに、怒りがカッと湧いてきた。
・
その瞬間に、瞬間湯沸かし器のように私の怒りのスイッチが入った!
わーーーーーーーーーーーーーーーっと、
掻き立てられる情動が走る。
それを観察
「私は怒っている!」「私は、怒っているんだ〜!!!💢」と確認するように声に出した。
「ふざけるなー」
「あったものがないなんて、あるわけがない。」
「本当のことをなぜ言えない」←犯人探しなので誰も言いたくないから余計にないことにしたい
こんなことで、何を怒っているんだ私。
みっともないよ〜。
いろんな声が聞こえた。
あなたは何を大事にしたくて、怒っている?
そう自分に言い聞かせると、「これは大事なことなの!!」だから私は怒っている!
それを子ども達に知らせる必要があるんだ!と、私の中からさらに声が立ち上がり、
いつもの何倍もの大きな声で「ふざけるなー💢」「目の目にある食材に失礼だ!」と叫んでいた。
興奮している私の中に、
「大事にしたいことはなんだっけ?それを言葉にして伝えないと子ども達には、あなたの気持ちは伝わらないよ」とまた別な声が登場。
ぐでんぐでんになりながらも、
精一杯に言葉にした。
〜〜〜
でも、
モヤモヤしたまま。
ジョアンナメイシーの読書会に入った。
そこで行われていたのは「感謝につながる」
みんなが感謝をセンテンスごとに言葉にした。
その言葉を響かせながら 深くつながっていく様子を見て感じて、ついさっきまで混乱して興奮している自分の内側とその違いをただただ内側に感じていた。
私の順番で私も感謝の言葉のワークをした。
地球や私の周りの人への感謝を言葉にし、そして、読書会が閉じた。
仲間に助けられた感覚。
それでも、一度興奮した私のモヤモヤが治らなかった。
人間だもの。
・
今朝はスペシャルな日で、
毎朝開催される、ジョアンナの瞑想会にも参加できる。
そこで、「愛と慈しみの瞑想」を読んでもう。
さらに自分につながる。
あー、
私は「捨てたことに怒っているのではなく、無いことにしたことに怒っているんだ」と気がついた。
・
そして、誰が捨てたのかはあまり私に関係がないことで、
なぜ捨てたのかを知りたかったのだと自覚する。
そうしたら、心がすっとした。
取り戻したそのスペースに、
自分が子供の頃も親や兄弟に何か言われると「うるさいな〜」と思ったことを思い出した。
そうしたら、子供達の気持ちを感じることができ、天を仰ぐような、空を眺める気持ちになった。
ふ〜っと、深く呼吸した。
そうして気づいたこと。
私は、修正や教育をしようとしていたことに気づく。
お味噌汁がなくなって、
私の「誰か知らない?」の問いかけに
「知らない」と返事があり、
世の中の「無いことにしているもの」の多さへの怒り(揉み消すような感覚)、
3人で顔を見合わせて黙っている様子に否認のシグナルと同等のものを認知し、そこへの怒りが重なって、
私が勝手に怒っていたのだ。
・
私の中で何かが動く。
そうじゃない。
そうじゃないよね。
・
自分の怒りやその根っこへのエネルギーを十分に感じ、
ただあるものとして感じることができた。
怒りの下にある大事なこと。
子供達が防衛的になる前に「本当のことを」人間の柔らかい部分を子供達と確認したかったのだ。
・
そしてもう一つ深く考えてみることができた。
子どもにとって、両親は無条件の受容の対象であり、無意識にそれを感じ求めている。
その中で、私は「教育者」になろうとした。
「食材を大事にする」ことを教えなくちゃって思った瞬間があった。でも、本当の奥にあった答えは、子供達が社会に飲み込まれてしまう「怖さ」があったんだと気づけた。
捨てた人を明確にし、理由をくっつけて、「修正」「分析」しようとしていた。
だとしたら、子どもは無意識に防衛的になるのは当たり前の反応だ。
自分の求めている安心や心地よさがない。
さぞ、怒ったお母さんには、びっくりしただろうな・・・。
そりゃ〜、どんな子供でも防衛的になるよね。
普段学校で「教育」を受けてくる感覚と、
家で「愛情」を感じて過ごす感覚には、うんでんの差がある。
ちょっとしたやりとりの中に どれほど深く、大事なことが隠れていたかということ。
そこに気づかせてくれた 子ども達に感謝。
そして、私が育つ中で同じ構造で両親や兄弟が声をかけてくれていたことにも気づく。
私を思うからこそ出てきた言葉の数々・・・。
・
私はいつも怒りを内に仕舞い込む癖がある。
今日はその怒りは、私にとって「大事なことだから」と、
怒りを出すことを選択した。
だからこそ、見えた別な大事な側面。
今夜は、朝の出来事を子どもたちと、気さくに、本音で話せたらいいな〜。笑いながらね。
朝、ベランダで見た空が これらか起きること全てを知っているかのように物語っていた。その事に気づかなかったな・・・って今頃噛み締めた。
支えてくれる仲間がいること、いつでも扉を開けてくれるその場と存在を十分に感じられた朝。
全てにに感謝と、願いを込めて✨
***
自己共感(自己理解)とセルフコンパッション
社会的な刷り込みがある(本人に責任がない)
成長の発達段階で必要としているもの
思いやり、慈悲、愛
コミュニケーション法(NVC)
そこにあるものを、ないものにしないでみていくこと(プロセスワーク)
感謝につながる(ジョアンナメイシー)