
ミーティングから。
覚書
自分が体験したことがない世界に対する抵抗感や、怖さ。
質感…って 何?
ハートにつながるって、どんなものなのか理解できない。
そうだよね…。
今までの生活の中にはこんなものはなかったという人は多いはず。
「こんな感じ?」と言葉で差し出す体験と言葉を差し出される体験。
そして、その代わりに大事にしてきたものを手放す。それは信じてきたものなので簡単には手放せない。
「正しさ」「正確さ」とか、「筋の通った」みたいな誰が定義付けたかわからない 人間が都合よく作り上げた空想に縛られているところから、
無条件の受容、否定もしなければ肯定もしないシンプルな共感はもしかすると、落ち着かないのかもしれない。
本来私たちは自由であり、生き生きできる生命体であること。
信念そのものを持つことも自由だ。
自分が生き生きするために、人の上に立つ必要もないし、優越感に浸ることも必要ない。
「裁く」や「考え」は秩序を素早く示すので、思考はすぐに安心できるが、その下には いい悪いの判断や違い、比較、自分を守る境界線があるため、自分の心や身体性、柔らかい人間性の質とはとはつながっていない。
「何が」原因なのか、間違い探しや手段に意識が向いて、ニーズとは真逆に走り出してしまう。
あー、これは分離する言葉の使い方だと察し、
そうなっている自分に気づくと私は、違う回路を探すように意識している。
一人で落ち着いて行う作業だ。
時には混乱していて、自分につながることさえも難しい。
時には思考はつながるぞと思っているのに、涙が流れ悲しいを全身で感じることがある。
意識しないと繋げることが難しい。
繋ぐ作業をせずに誤魔化す方法は山とある。
裁きや教育、修正を受けると察したら、私は関係性を持ちたいとは思わない。
損得勘定、ランクや特権を振りかざす中に「愛」や「思いやり」を見つけることが難しくなる。
NVCに触れたことがない人にとって、「共感」の体験がなければ未知の世界なので、ある意味怖いもの。思考が安心するために解釈したくなるかもしれない。
それも共感をしてみないとわからない。
でも予測はできるかもね。
自分の内側に入られることに対し、敏感に防衛反応を示す。
トラウマが影響しているかもしれないのだ。
そこにケアの気持ちを向ける。
共感を知っているものが、今ここの状態に 優しさを持って ただ 目撃するだけ。
何も変える必要もなく、自分も変わる必要もない。
自分も、自分の本質(セルフ)と一緒にいるだけでいいのだ。
そこにただあること、その質こそが思いやりとなりケアになる。
自分で気づき、自分で選択し、自分で自分のニーズを満たす力があることに信頼を向ける。
目撃し、承認されることで得られるエンパワーが何よりの力となる。
NVCを知っているということは、
ある意味「ランク」なんだよな〜って。
それを十分自覚し、祝福し、
どのように使うかは自分次第。